一体読んでいる人は本当にいるのか一瞬(どころかだいぶ)疑問に思いましたが、なんつーかもともと自分がこのほとばしる萌えに一区切り付けるためというかほとばしったままだと少なくともわたしはそのままなんかよくわからないうちに気持ちも冷めて忘れていってしまうだろうから、すきになって、すきでいるならちゃんと何がどうすきとか自分に対して説明できるようにしておかないといつか忘れるどころか大事にさえできなくなることだってあるかもしれないというともかくちょう個人的欲求に基づいて書いてるっていうアレだから人様が読める仕様に全くなってないっていうかなんかもうほんとにすみません。
あ、あと二回くらいでできれば終わりたいんだけど、お、お、わ、る?なんかここのところ 起床→仕事→帰宅→E7感想→就寝 みたいな生活が続いてるんですけど…し、しあわせだなあ っていうか、最終回再放送のその日か翌日に感想あげて終了のはずだったのに、い、いっしゅうかんくらいたってる…?あーーーれーーぇ?
今日は一段ととりとめもなくつぶやいてみます。
あいっていったいなんなのかはかわかんないけどね…じっさい。でも、「あいしてる」。
■キィワード2 「こども/おとな」
「こども」「おとな」ということばも、作中よく出てきたキィワードでしたね。最終回(#49,#50)では、「こどもにあんな決意をさせて」「それがおとなのすることか」「おとなの責任だからな」「俺、ガキだった」などなど。キィワードとして多様されていたので、やっぱり意識的に描こうとしたことがらの一つだと思いますが、全体的にことばに縛られすぎていたような気もします。…こういうのパラドックスっていう?…いわない? … ??? まいいや
十四歳の頃、ずっと「おとな」だと思っていた主に二十代後半だったり三十代だったりもっとだったりするひとたちがすごく悩んでいたり、迷っていたり、逃げ出したかったり、葛藤していたり、泣いたり笑ったりしていて、特にホランドなんかはレントンにとって憧れだったわけだから、そのギャップといえばものすごかったと思う。
それとは逆に、自分よりずっと「こども」だと思っていた相手が、過去の自分と同じように悩んだり迷ったり、憧れたり夢見たり、ぶつかったり転んだりしているんだけど、でも、確かに自分とは違う、確かに別の一個の人格を持った人間であって(エウレカはコーラリアンだけど…)、そしていずれ自分とは違うやり方を見つけたり、自分が思いつきもしなかったような方法で前に進んでいく。
たぶん、「こども」と「おとな」の狭間、十四歳の主人公を軸にそんなことを描こうとしてきて、その描こうとしたこと自体はすごくよかった。ただ、やっぱり描こうとしすぎて、ことばに縛られているなぁっていうのをどうしても感じてしまう。
E7がこのキィワードを通して描いてきたものは、「こども」や「おとな」ということばによって、確たるものとして規定され得ないもの、最終的には一人ひとり違う、個々人の「生きざま」なのであって、それに、主題はレントンの成長物語だから、例えばレントンという「生きざま」のなかでも物語がスタートした十四歳という地点の彼の「生きざま」と、物語が終了した十六歳の地点でのレントンの「生きざま」はやっぱり変化しているし、それを「おとなになった」とひとことで表現することは簡単だけれど、あえて一年という時間(本当はもっと長いのだろうけれど)をかけて描いてきたわけでしょ。ことばで語れば「おとなになった」で終わってしまう物語を、あえて。
それなのにこの「こども/おとな」というキィワードを多用しすぎるることによって、確かに「それが描きたいんだ」ってことはよく伝わってきたけれど、「こども」や「おとな」という枠にはめられたり自分からはまってみたりするレントンが、ホランドが、ほかの登場人物が、最終的にはそれを、一人ひとりのやり方で、それぞれが打ち破っていくさまを描いたことに対して、結局なぜ作り手のほうからもう一度「こども」や「おとな」という枠を与えてしまうのか、もったいなく思いました。
…まあそれとは別に、そういう多くの人が信じている枠組みから抜け出したりはまってみたり、壊してみたり作ってみたり、形をいじってみたり眺めてみたりというアクティブなものの捉え方ってそれはそれですきなんですけど。
うーん、そいで、だからわたし自身は「こども」や「おとな」という生き物がいるわけではなく、それは「時代」であったり「概念」であったり(するので可変的であり多様)、そうでなければちょう機械的に、「肺の中にはじめて空気を吸い込んでから何年後からはおとな」とかしか規定し得ないとか、そういうふうに理解しているので、どうしてもむずむずしてしまいました。「こどもがすきなんですぅv」とかいって保育士とかになっちゃうひとのことがほんきでわかんないんだ…うん、話がそれた。
■すごいあほくさくてすみません
ニルバーシュがさ、あっちの宇宙に行くときにさ、
「希望という名の光」ってさ…!
(キラキラした目でチュチュファンに訴えてみているところ)
■たるほもえ げっこうごうもえ (あほくささもういっぱつ)
「わたしたちはやることがなにもかも遅すぎたのよ。ホランド。」というタルホの一言に萌え モラトリアム時期のゲッコウステイトのことを思い出してきゅんきゅんした!いつも後から思うんだよね、あの時間がもったなかったって…!!でも、多分、あれだけの時間をかけて向き合って、葛藤して、転がりまわるようにしてやってきたからここまでこれたんだとおもうんだ。苦しんだことも、そして楽しんだことも、ちゃんと感じてきたから。
こ、こんどこそかんそうさいしゅうかいにしたい
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